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意外と知らないッ?! 大阪の史跡・文化再発見!!

松屋町はいかにして「人形」や「花火」の街となったか

松屋町の歴史に迫ります!

なぜ松屋町には人形店が多いのか、その歴史は古く慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に端を発します。豊臣方と徳川方の戦いにより焼失した大坂城とその城下町を復興するため、建築ラッシュが起こり、屋根瓦の需要が拡大。その際に、瓦職人が集まり、瓦を焼いたのが松屋町周辺です。その名残は、松屋町の南側の「瓦屋町」という地名からもうかがい知ることができます。

 

当時の瓦職人たちは、瓦を焼くという仕事に飽きてしまっていたのでしょうか?仕事の合間に素焼きの人形を作ったといいます。その人形が評判を呼び、人形店が立ち並ぶきっかけとなったのです。

 

それから時は流れ、第二次世界大戦末期の昭和20年(1945年)の大阪大空襲で、松屋町の通り沿いは焼け野原となりましたが、戦後の闇市をきっかけに再び賑わいを取り戻し始めました。当時は今のような人形や花火ではなく、進駐軍の缶詰を使ったブリキのおもちゃを売る店が多く、製造自体も松屋町で行われていました。

 

その後、手塚治虫の「新宝島」の大ヒットがきっかけとなり、全国的に赤本とよばれる子供向けの漫画本を売る店や出版社も増加。松屋町にも多くの書店や出版社が立ち並びました。「フラフープ」や「ダッコちゃん」などの一世を風靡した玩具が発売されたことにより、玩具問屋街としての復興を後押しました。

 

ところが昭和40年(1965年)ごろから玩具問屋が減少し始めました。これは大型のデパートが全盛を迎え、子供が自分のおこづかいで購入する「小物玩具」の店が町から減ったことが要因でした。それに、代わるように増えてきたのが「人形店」。ひな人形、五月人形、花火、お正月や子供の日、クリスマスなど各季節の飾り物が店先を彩りました。現在の松屋町のイメージはこの頃から作られ始めたのです。

 

さらに、紙類、文房具、ビニールなどの梱包材、スポーツ用品、フェルトやリボンなど、実に様々な商品の卸売店や小売店が入り混じるようになりました。近年では、タワーマンションが何棟も建てられ、人口の増加が著しい地域でもあります。玩具や菓子店もスーパーマーケットやコンビニの影響で数は減ってしまったものの、まだまだ健在。ひな祭りや子供の日の前には節句人形を求める方で、夏休みには花火や水鉄砲を求める方で非常に賑わいます。

 

松屋町がこれらの多様な顔を持つようになったのは、江戸時代から昭和初期、戦後から今に至るまで、様々な転機を乗り越えてきた証だといえるでしょう。

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